讃岐の地にうどんを愛する心と技術を伝える
香川県高松市
80年の歴史ある製麺所のうどん 4つのポイント
- 足踏みと手打ちで作られるコシが強いうどん
- おいしい讃岐うどんに適した小麦を厳選
- しっかり小麦の味と風味がするうどん
- 熟練した技で塩加減、踏み加減を気候に合わせて調整
世界一うどんを食べる
うどん県「香川県」
香川県は自他ともに認める「うどん県」
讃岐出身の空海が中国から待ち帰ったのが始まりとされる。
香川県は上質な小麦が作れること、
品質のよいいりこが多く獲れたこと、
古代から塩の産地であったことから、
うどんづくりには最適な土地であった。
讃岐うどんが大阪万博への出展したのを機に全国に知れ渡り、
4回の讃岐うどんブームを経て、
現在のうどん県の地位を確立した。
うどんづくりも機械化が進み、手打ちに匹敵するレベルものが作れるようになった。
しかし、本製麺所は、足踏みと手打ちによる製法で
コシや味にこだわったうどん作りを行っている。
「うどんは生きとんぞ、わかっとんか!」
「寝ても覚めてもうどんです。」
製麺所職人
職人が子どものころ、学校から帰ると祖父のうどん店にはいつも温かい湯気が立っていた。その湯気を見るたびに、「うどんが食べたい」と思い、気づけば自らうどん作りを手伝ってうどんを打っていたという。職人にとって讃岐うどんは「おかえりなさい」と包み込んでくれる温かさがあった。その小麦の香りがする湯気に包まれる幸せを届けたいと職人は言う。おいしいうどんを食べてもらいたい一心で、祖父と父から厳しく言われながも修行を乗り越えてきた。「うどんは生きとんぞ、わかっとんか!」と何度も言われ、うどん作りの心を教えてもらった。
若い頃からうどんの名人と言われてきた職人の祖父と父。うどんには人一倍うるさく、父とは亡くなる直前までうどんのことで喧嘩ばかり強いていた。そんな職人も今では、祖父や父と同じように「うどんは生きとんぞ、わかっとんか!」と店の職人達に対して毎日のように言っている。うどんを肌で感じ、自分の肌をうどんに伝える大切さを職人達に教えている。また、讃岐うどんへの愛と味を次の世代に残したいと、うどん打ち体験やうどん教室を小学校などで行っている。職人の忙しくて眠れない夜が続く。「寝ても覚めてもうどんです。」と、幸福な湯気を多くの人に届けるために、職人の慌しい日々は続く。
職人の幼いころからの努力が実った瞬間
製麺所職人
祖父の代から80年以上続くうどん屋。実は父の代に一度廃業になってしまった。東京オリンピック頃から「讃岐うどん」が徐々に知れ渡るようになったが、食べ物を足で踏むことが問題視され、「足踏み禁止令」がでることになった。そこで、うどんの組合員たちが集まり、足踏みの代わりに機械打ちのうどんを作る会社を立ち上げた。しかし、結局足踏みは全面禁止とはならず、その会社のうどんを買う株主はほとんどいなかった。結局は資金が続かず廃業になった。
就職先が決まっていた中学校卒業の年に転機が訪れる。大阪万博に出店する東京のすし屋から常駐のうどん職人を1人依頼され、廃業して社員がいなかったため、職人が以来を受けることになった。これが最後と思い出店したものの、職人のうどんの味や風味、コシが人気を集め、1日に8千玉も売れる大盛況となった。幼いころから祖父や父からうどん作りを教わり努力してきた成果が実った瞬間である。万博の経験を生かし、当時では珍しいセルフ式のうどん店を始めたところ、これがまた大盛況となりジャンボフェリーや高松市内にまで店を出せるようにまでになった。一度は別の道へ進もうとしていた職人であったが、再び大好きなうどんを作れることに幸せを感じているという。